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戦争体験の話を聞きました@市民ネットワークみはま・政治カフェ
市民ネットワークみはまでは 戦争の話を聞かせてください との呼びかけをしています。→ 戦争の話を聞かせて下さい

今月の 政治カフェ (毎月第3土曜日の午後開催)では、子どものころ、広島で被爆された方の話を聞きました。

<Kさん(女性)の体験談>
1 1945年8月は何歳でどこにいましたか?

7歳、広島

2 そのときどんな動きがありましたか?
1945年8月6日午前8時15分、国民学校の2年生で、木造校舎の教室にいた。突然ものすごい光が眼前に広がり、あっという間に木造校舎の天井の梁が落ち、窓ガラスが鋭利に飛び散り、教室の壁、机、床、そして私にも突き刺さった。梁に挟まれて逃げられなくなっている友を置いて、廊下まで出た。学校の保健室で突き刺さったガラスをとる応急手当を受けたが、傷ついた体を手当てする薬もガーゼも包帯も何もなかった。

学校まで父が迎えにきてくれたので、父の背中におぶさり家まで帰ったが、その道々で この世の地獄 を目にした。

手から腕にかけての皮膚が焼けただれて爪から表皮がぶら下がっている人、真っ黒い炭のようになった赤ちゃんを抱いたお母さんらしき人、全身を焼かれて這うように逃げている人、眼球が飛び出して見えなくなっている人、飛び出した内臓を抱えて逃げてくる人、「水をください、水、水」と父や私にすがりついて来る人、たくさんの人がいたが、その人たちをどうすることもできず、父と私は逃げるように家に帰った。

3 そのときどんなことを考えていましたか?
爆心地から3.5キロほどのところにある私の家も爆風で屋根がとばされ、ガラスが飛び散り、放射能を多量に含んだ「黒い雨」が家の中まで降り、壁やタンスにはいつまでも「黒い雨」の筋が残っていた。爆心地近くの知り合いや親戚が助けを求めて私の家に逃げてきたが、14歳の従姉は全身が焼けただれており、「痛い、痛い」の声が弱くなって、3日目に息をひきとった。10歳の従兄は何の傷もなかったけれど、耳や鼻から血を流していて、ある日大量に吐血して亡くなった。体の細胞や遺伝子が壊されてしまう 放射能の恐ろしさ を知った。

4 今その時代を振り返ってどう思いますか?
父と母は心も体も傷つき、何もかもなくなった中、あらゆる手立てで私たち子どもを救い、育ててくれた。その両親もガンで亡くなったが、両親にはとても感謝している。両親によって今、私が生かされていると思っている。

原爆は普通の日常生活をすべて奪ってしまった。 戦後も原爆は私を苦しめ続け、就職のとき、結婚のとき、被爆者であるということだけで偏見や差別を受けた。結婚の話が持ち上がったときは、「うちの家系に悪魔の血を入れることはできない」とまで言われた。また、科学的には証明されていなくても、被爆者の子や孫の遺伝子に放射能が影響を与えることは明らかになっており、被爆二世、三世の大きな不安となっている。被爆者は、被爆者であることだけで、人生の節目、節目で苦しみ、怒りを覚える。このような体験は、絶対に世界の人々の上に再び繰り返させてはならない。

5 若い世代へのメッセージを
核兵器は絶対になくさなければならない。もし、核兵器が意図時であれ、偶発的であれ、再び使用されることがあれば、甚大な被害をもたらすことは避けられない。原爆がいつ使用されたのか、どこで使われたのかについては知識があっても きのこ雲の下で何が起きたか また、今日まで続く原爆被害については知らない人がほとんどである。そこで核のない世界を求めて、国の内外で体験を話し、核兵器廃絶を訴えつづけている。

ある小学校で体験を語った後、子どもから はだしのゲンの話は本当だったんですね と言われた。つくり話だと思っていたとのこと。命ある限り被爆の実相をいろいろな人に語っていく必要性を感じた。

戦後70年が経ち、証言できる被爆者も減り続けている。核のない世界を実現するため、ふたたび被爆者をつくらないため、原爆被害をぜひ語り継いで欲しい。

  # 子どものころに感じた戦争への思いを私達に語ってくださいませんか? 引き続き、ご連絡をお待ちしています。→ 戦争体験を語り継ぐ

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