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戦争の話を聞かせて下さい
市民ネットワークみはまのまちづくり通信(83号)では 戦争の話を聞かせて下さい と呼びかけをしています。→ 市民ネットワークみはま まちづくり通信 

配布後すぐ連絡があり、ネットのメンバーとともに、お話を伺いに行ってきました。

<Yさん(男性)の体験談>
1 1945年8月は何歳でどこにいましたか?

13歳、伊豆

2 そのときどんな動きがありましたか?
東京から伊豆に疎開をして、中学校の寮に入っていた。玉音放送を聞いたことも覚えているが、内容はよくわからず、戦争が終わったことだけはわかった。空襲には遭わなかったが、東京にいたとき、一度だけ上から爆弾が降ってきたことがあった。学校で教えられたとおり、耳と目を同時にふさいで伏せていたら、ひゅるひゅるという音に続いて、爆音が響き、100mの距離に爆弾が落ちた。背中に石や砂が飛んできた当時のことを今でも覚えている。

父は軍の工場で風船爆弾をつくる仕事の責任者をしていたが、当時は軍事機密となっており、家族にもその内容は知らされていなかった。戦後、軍の仕事がなくなった家族は、食べるために伊豆の雑木林を切り開いて、1年ほど自給自足の生活をした。たくさん収穫できる水っぽいさつまいもをつくったり、山芋を掘ったり、ウサギ、山鳥、ウズラ、キジなどを猟で捕獲して食べたりした。また、下田ではイルカの漁が行われていたので、とても硬いイルカの皮を食べていた。

3 そのときどんなことを考えていましたか?
とにかく食べ物がないことが辛かった。伊豆では学生を軍事工場で勤労奉仕させることはなかったが、繁忙期に農家の手伝いをさせた。そこに行くと、塩の入った白米のおにぎりを食べることができたので、うれしかった。また、軍隊式の規律が学校でも当たり前で、敬礼が上手にできないと殴られたりした。「国のために奉仕する」ことが当たり前で、それに異をとなえることはできる雰囲気ではなかった。

4 今その時代を振り返ってどう思いますか?
二度とこんな体験はしたくない。1944-1946年にかけては人間らしい暮らしをするための食べ物はなかった。当時は、産めよ増やせよの時代で、どの家庭も子どもが多く、大人は子どもたちを食べさせるだけでも大変な苦労をしていた。限られた配給物資では足りず、家の中からどんどんものがなくなっていき、食糧に換えられていった。また、学校では竹やり・柔剣術、勤労奉仕、防空壕堀り、行軍の練習・・・などをさせられて、授業はほとんど行われていなかった。英語(敵国語)の授業はすっぽりとぬけていて、大人になって自分で勉強せざるをえなかった。

5 若い世代へのメッセージを
戦争はまず最初に弱い者が悲惨な目に遭う。戦争は絶対にしてはならない。食べられない、勉強できない社会にしてはならない。それを子どもたちにぜひ伝えたい。

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